カテゴリー: ライフ

新入社員6月までの注意事項 「男性店員、ところ、女性」

 大手チェーン薬局で目当ての商品が見つからず、レジの女性に尋ねたところ、「それは扱っていません。すみません」と即答されました。仕方なく帰ろうとすると、離れたところにいた男性店員が慌てて駆け寄ってきて、「その商品ならこちらにあります」と案内してくれました。
 精算を済ませつつ、レジの女性の名札を見ると「研修中」の文字が。「分からないなら、適当な受け答えでその場しのぎをせず、先輩に聞けばいいのに」と思いながら店を後にしました。
 別の日。レストランでメニューに書かれた料理がよく分からず、若いウエーターに食材を聞くと「それは野菜です」と言うので注文したら、ソーセージが出てきてびっくり。彼が新入りだったかどうかは分かりませんが、お客に返事をする前に確認してくれればそんな間違いは起きなかったはずです。
 さまざまな企業の人事や総務の担当者の方から、最近の新入社員は分からないことがあっても質問をせずに自己判断で事を進めてしまい、後で修正するのが大変なこともあるという話を聞きます。
 「分からなくても質問しない新入社員」がいるのはどうしてなのでしょうか。質問することで「できない人間」だと思われたくないというプライドがあるのかもしれません。ものを尋ねにくい雰囲気の職場なのかもしれません。失敗や挫折をあまり経験せずに社会人となり、分からないことやできないことがあるという事実に耐えられないのかもしれません。
 でも、「分からない→他人に聞かない→自己判断で進める→失敗・挫折」というパターンには、適応障害の危険があり、問題です。
 新年度が始まり、多くの企業では新入社員が研修を受けている頃だと思います。この時期、心療内科医の観点から指摘しておきたいことがあります。これから3カ月は新入社員にとっては要注意期間。というのは、5月、6月になると適応障害を訴えて心療内科を受診する新入社員が途端に増えるからです。
 適応障害とは、はっきりしたストレス要因があってから1~3カ月以内に起こる心身の不調を指します。例えば、不安感や不眠、いらいら、うつ気分、めまい、胃腸障害などです。職場から離れているときや休みの日は調子が悪くないのに、職場に行こうとすると症状が表れるのが特徴です。飲み過ぎや過食になることもあります。うつ病と似ていますが、うつ病だと職場から離れても調子が悪くなるため、適応障害とは異なります。
 環境が変わり、職場での人間関係になかなかなじめないこともあるでしょう。そこで失敗して一人で落ち込む前に、まずは分からないことは何でも周りに聞いてみる習慣をつけるとストレスを乗り切る手助けになります。
 新入社員であれば、最初の3カ月は何を聞いてもばかにされることはありません。むしろその時期に、自分の質問に真剣に答えてくれる先輩を見つけ出し、その先輩を日々の業務や精神的なサポートをしてくれる「メンター」にしてしまうことが大事です。
 職場には質問しにくい先輩もいるはずです。最初の3カ月が過ぎたら、分からないことをすぐ聞くのではなく、まず自分の頭で対処方針をある程度固めてから、周囲に「自分はこう考えましたがこれでいいですか」と問い掛けるようにすると、相手とのコミュニケーションもうまくいきます。
 「分からないことは聞いておこう」。これから3カ月間、新入社員の皆さんにはその姿勢で職場に臨んでほしいと思います。(文 海原純子)

なぜ新潟や石川が「人口日本一」だったのか? 都道府県の人口推移から見る、日本近代化の歴史(日本の地方議会議員、ブラックペアン)

 日本の人口は2017年10月1日時点で1億2670万人ほど。都道府県の人口1位はもちろん東京都で、1372.4万人。最下位となる47位は鳥取県で、56.5万人。その差は約24倍にもなります。

 現在ではあまりにも当たり前の東京の人口1位。しかし、かつては東京が人口1位ではなかった時代が続いたことは、あまり知られていません。

 元来日本はここまで東京一極集中ではなく、その地方に応じた産業が活発で、今より地方が元気な時代がありました。

 人口の統計がはじまった1872年から見てみると、実は東京ではなく、意外な都道府県がトップに立っていることが分かります。そんな思わぬ再発見の多い「歴代人口ランキング」(※)を見ていきましょう。

※:採用する人口データは、1872~83年までは本籍人口。1884~1907年までは乙種現住人口。それ以降は統計局の国勢調査・人口調査らを参考にしています。国勢調査以前の統計は若干精度に欠けるとされますが、ご了承ください。

●統計開始後、最初の1位は広島県!(1872年)

 廃藩置県が行われた後、本格的な人口統計がはじまった1872年。当時の本籍人口はおよそ3311万人でした。人口1位は、江戸時代から行政首都であった東京……かと思いきや、実は広島(廣島)県で、91万9047人でした。2位は山口県で、82万7536人。当時の東京府は77万9361人と3位だったのです。

 なぜ広島なのか。それは江戸時代から瀬戸内海航路沿いの拠点として知られ、近畿地方で消費される綿や日用品、食品などの一大生産基地となり栄えていたからです。街単位でも江戸・大坂・京都・名古屋・金沢に次ぐ大都市として君臨していました。

●江戸期から家康の力で繁栄した、愛知県が日本一(1873年)

 その翌年1873年。早くも1位は愛知県に入れ替わり、人口は121万7444人。廃藩置県後、尾張(知多郡を除く)は名古屋県、三河と尾張の知多郡は額田県と分かれていたのですが、1872年4月に名古屋県は愛知県となり、同年11月に額田県を廃して愛知県の管轄に移し、統合したことで日本一の人口県が生まれたのです。

 なぜ愛知が栄えたか。それは江戸・大阪につぐ城下町として地元出身の徳川家康が「6万人の街を丸ごと移転させる」など、過剰ともいえるほどの情熱を持って城下町づくりを行い、木曽の山林(御用林)も特別に与えたから。これにより財政が安定し、現在まで続く繁栄の基盤になりました。

 ちなみにこのときの2位が白川県。現在の熊本県で、八代県を吸収したことで、95万389人という当時の巨大人口県になりました。3位は広島県で92万5962人。東京はさらに順位が後退し、5位でした。

●19世紀ニッポンを代表する街「新潟」がついに登場!(1874~76年)

 1874年、ここで19世紀における一大都市が1位に躍り出ます。それは新潟県。前年に柏崎県を合併したことで、人口は136万8782人に。この新潟県の天下は1876年まで続きます。1位の理由は、稲作に適した気候と、海運全盛期に主要の流通手段だった「北前船」の拠点だったことが理由だとされます(のちほど詳しく紹介)。

 2位はいまは無き”名東県”で133万5364人。徳島県+淡路島によって構成されており、これに加えて前年に香川県を併合したことでこの順位に飛び込みました。3位は愛知県で121万7521人、4位には木更津県と印旛県が合併して生まれた千葉県が104万3189人でランクイン。

●富山県と福井県を編入していた“大石川県”が1位(1877~81年)

 さらに、1877年には新潟と同じ日本海側から新たな1位が登場します。それは石川県。人口はグッと上がって、180万6509人に達しました。実はこのとき、今の石川県の地域に加え、富山県と今の福井県の地域のかなりの部分を編入しており、広大な地域を誇っていたのです。

 2位は新潟県で150万63人。3位は愛媛県。前年に香川県と合併して、139万4091人という人口を誇っていました。4位は兵庫県で134万3758人。こちらは前年に飾磨県と豊岡・名東両県の一部を併合して現在とほぼ同じ県の区域となり、順位を上げています。

 この「大石川県」は、1881年まで5年もの間トップを守り通します。

●北陸は「口減らし」が少なかった

 それにしても、今ではちょっと地味な扱いをされることも多い「日本海側」の県がなぜ1位になったのでしょうか。

 北陸地方及び新潟は浄土真宗をはじめとした仏教が強く信じられた地域でした。そのため、口減らしのためにかつて日本中の多くの農村でみられた「間引き(赤ちゃんを殺すこと)」や身売りが非常に少なかったため、人口はどんどん増えていったのです。

●経済が花開いていた日本海側

 19世紀までは経済の中心は第一次産業であったため、作物の王様である「米」を育てるのに適した環境であった日本海側が賑わいました。

 加えて、明治の途中で陸路が発達するまで、運送の主役は長らく「海運」でした。その中でも代表的な「北前船」という運送手段が活躍したのも日本海側です。

 実は黒潮の流れに逆らって走る太平洋側のルートは当時の船では航海が大変でした。それに対して日本海側の西廻り航路のほうがカンタンかつ安く運べたので、海運の主要ルートだったのです。

●日本海側のスーパースター都市「金沢」

 当時日本海最大の都市にして、一目置かれていたのが金沢でした。

 金沢大学の佐々木雅幸教授によると、幕藩体制では農業生産力の大きさによって石高(こくだか)が決まっていたため、金沢は徳川家の城下町や京都を除くと、日本最大の城下町だったそうです。 

 市レベルでも東京・大阪・京都・名古屋に次ぐ全国第5位の大都市であり、文化の中心地としての貫禄を認められ、日本海側として初めて第九師団が置かれて軍都としての地位も確立していました。また、第四高等学校が全国5つの高校の1つとして設立され、学問的にも先進都市として君臨するなど、まさに日本屈指の一大シティでした。

●工業化に立ち遅れ、東京・大阪に人が大流出!

 なぜその後、金沢をはじめとした日本海側は、太平洋側に比べて後れを取ってしまったのでしょうか?

 その大きな一因は都市圏への大流出でした。コメの一大単作地帯で、太平洋ベルト地帯の工業化についていけなかった北陸は、近代化の進んだ太平洋側にどんどん人口を取られていきました。

 農家の次三男らが東京・大阪などの大都市へ流出し、工場労働者のほか、都市化にともなって増える小商人・職人・店員らになったのです。

 彼らは、持ち前の粘り強さで、豆腐屋・魚河岸などの朝早くから泥臭く働く業種を得意としていました。特に風呂屋は彼らによって支えられており、東京・大阪の銭湯の初代経営者は、石川・富山・新潟の3県の出身者が約8割を占めるほどでした。

 東京・大阪の風呂屋には、今も彼らがはじめた風呂屋が数多く残っています。

 さらに「北前船」も鉄道や汽船、通信技術の進歩により、より早く大量の荷物や情報が全国各地に送られるようになったため不要になり、衰退していきました。日本海側は、人もいなくなり、産業も伸びず、長い低迷期に突入していくのです。

●ものすごい勢いで北海道に移住!

 北陸地域の人口が増えなかったワケのもう1つが、北海道への移民の多さでした。1897年には新潟・富山・石川・福井から約3万人が渡道し、全国からの移住者の半分近くに。さらに1882年から1935年までの間には、その4県から21万5958戸もの戸数が北海道へ移っています。

 また北海道への移民は、汗かき型の仕事につくことが多かった東京・大阪組とは打って変わって、札幌の老舗・今井百貨店を開いた今井藤七など、大きな商業での成功を収めた者も多かったといいます。

 国際日本文化研究センター教授・井上章一氏の説では、「秋田美人」や「新潟美人」は、経済で取り残された地としての町おこしキャンペーンとして喧伝されたものとしています。

●石川が分離して、新潟が返り咲き!(1882~83年)

 話は「歴代人口1位の県」に戻ります。1881年、越前が若狭と共に福井県として分県したことで、1882年の統計で石川県は5位まで順位を落とします。そこに返り咲いたのが、新潟県(158万1168人)でした。

 さらに、そこへ一気に2位にランクインしたのが大阪府(157万2033人)です。

●堺県と一緒になった大阪がトップ(1884~86年)

 この大阪府の大きなジャンプアップは、実は合併前の1881年の大阪府(58万6729人)より、現在の奈良県の区域も含まれておりずっと大きい堺県(99万7292人)が合わさったことで可能になりました。そして1884年に大阪府が163万2800人で人口1位となり、その座を”ほぼ4年間”(※)守り通します。

※:ちなみに1886年1月1日までは、1月1日付けで集計がされていたのですが、同年12月31日から、末日付けで人口集計がされるようになります。そのため、1886年だけ、1月1日付けと12月31日付けの集計が共存します。ちょっとまどろっこしいですが、お付き合いください。

●全てが東京有利に……明治維新の大ピンチから息を吹き返した大阪

 江戸時代に商業として大発展を見せた大阪でしたが、明治のはじめは大ピンチに陥っていました。

 関東式の「金本位制」をむりやり押し付けられての「銀本位制の廃止」のせいで、両替商に取り付け騒ぎが頻発。結果、約50軒が相次いで破産。「藩債処分」という事実上の借金帳消し処分などにより、大阪の経済は致命的なほどのダメージを受けました。

 しかし、大阪取引所や大阪商工会議所などの設立に尽力し、連続テレビ小説「あさが来た」にも描かれた五代友厚の活躍もあり、後に「東洋のマンチェスター」といわれるほど、紡績業を中心に商工業が飛躍して大阪は復活を遂げたのです。

●大阪市が東京市の人口を抜いた!

 その後も大阪は発展を続け、1925年の国勢調査では市町村単位でも、大阪市(211.5万人)が東京市(199.6万人)を抜いたこともありました。3位が名古屋市の76.9万人、4位が京都市の68万人ですから、大阪市は日本でも相当な人口を持っていたことが伺えます。

 なお大阪市の1位はその次の1930年の国勢調査まで続きますが、東京市は隣接する5群82村を合併したことで面積を7倍近くに広げ、1935年の国勢調査では東京市(587.6万人)に対して大阪市(299万人)と、大きく差をつけられました。

 しかし当時、人口密度では大阪は東京の1.5倍という日本一の超過密都市であり、東京に負けない「大大阪」としての姿がそこにあったのです。

●最下位の常連は北海道→鳥取へ

 閑話休題。ここまで1位をずっと見てきましたが、逆に最下位となっていた県はどこでしょうか。それは調査開始から長らく北海道でした。今の佐渡であった相川県など消滅した県を除けば、1872年~1891年までに渡って北海道が最下位でした(途中、函館県・札幌県・根室県に分かれた時代もあり)。

 ただ前述の通り、北海道は多くの移民が入り込むことによって人口が激増します。それにより、1892年から人口最下位の座を引き継いだのが鳥取県でした。

 日本海側は重工業化や近代化が遅れた地域が多かったのですが、鳥取県もその例外ではありませんでした。この鳥取県は現在までにおいて、今はなき樺太庁などを除き、ずっと人口最下位に居続けることになります。

●一時期、島根県は東京より人口が多かった!

 ちなみに同じく人口が少なく、ブービーの位置となって久しい島根県ですが、実は鳥取県を併合し、1877年~1881年まで、人口100万県としてベスト10付近の上位にいたこともありました。

 1880年を例に取ると、今の鳥取県を含めた島根県が103.7万人(全国12位)、対して東京府が95.9万人(同17位)と、東京を凌駕していたのです。

 しかし1881年9月に再び鳥取県が離れ、「大島根県」の夢はわずか5年でついえました。

●またまた新潟が首位奪回!(1887~1896年)

 話は再び戻って、1887年には1位だった大阪から新潟が165万4000人で首位を奪回します。それは、大阪府に編入した堺県と合併していた奈良県が分裂したためでした。

 王者のカムバック。しかしここから猛然と追い上げてくる所がありました。そう、東京です。

●今より小さかった東京に多摩地区が移管される

 ちなみに当時の東京府は、現在の東京23区の大部分と伊豆・小笠原諸島というやや狭い範囲を行政区域としており、多摩地区は神奈川県の管轄でした。

 1893年に三多摩地区が東京府に移管され、ほぼ現在の区域が出来上がります。その結果、前年の人口135万6800人から25万人ほど増やして、160万8700人で2位に。同年の新潟県170万6400人に約10万人差まで迫りました。

●ついに東京がトップの座に(1897年)

 そして1897年、東京が176万2100人として1位に。新潟は172万3400人と2位に落ち、10年間守っていた首位を帝都に明け渡しました。

●北海道が東京を抜いてまさかの人口1位!(1945年)

 このあと、ずっとずっと東京の1位が現在まで続くのですが、実は例外的に、1度だけ東京が1位から陥落したことがあります。

 それは1945年。当時日本の人口は7199万8104人となっていましたが、1位は北海道で、351万8389人。2位の東京都は348万8284人でした。

 これは太平洋戦争で都市部が疎開によって人口を減らし、逆に北海道らが疎開先に選ばれ、人が集まったからとされています。ただしこれ以降、現在まで東京都は1位を明け渡したことはありません。

●かつて1位の石川県は、34位にランクダウン!

 ここで都道府県人口1位遍歴をおさらいしましょう。今ではなかなか「人口1位になった」とは思えない意外な県が並びます。

 そんな、かつて1位だった県は、当時より大きく順位を減らしているところも多くなっています。

 2017年10月1日現在で見ると、大阪府の3位(882.3万人)や愛知県の4位(752.5万人)は良いほうで、北海道は532万人で8位、広島県は282.9万人で12位。長らく栄華を誇った新潟県は226.7万人で15位。石川県に至っては、114.7万人で34位と下位に沈んでいます。

●島根県の人口は2166年にゼロになる!?

 右肩上がりで人口が増えていた過去とは違い、いまは人口減少社会です。

 テレビ番組「月曜から夜ふかし」で島根県統計調査課・鳥取県統計課のデータをもとに算出したところによると、島根県が2166年、鳥取県が2184年に人口がゼロになるという試算まであります。

●19世紀の人口分布のほうが、理想的だった?

 東京一極集中は人やモノの移動・輸送効率を高め、生産性向上につながるともいわれるものの、子育ての難しい東京に集まることにより、出生率のさらなる低下が危惧され、さらに災害時のリスクヘッジがなくなるなど、弊害も多く伝えられます。

 実は人口が分散していた過去のほうが、日本の健全な発展において理想的であったと言う学者が多く居ます。いま考えると意外な都道府県が人口1位の座をリレーしていた過去の人口分布が、東京一極集中になりすぎない日本をつくるための参考になるかもしれません。

 いままで辛酸をなめてきた日本海側も、アジアの経済力が増大する中で地理的な近さがチャンスと捉えられ、国も日本海側港湾の機能別拠点化を推し進めています。

 東京以外に、人口の減らない県がこれからどれだけ出てくるか。それは、この国全体が元気で居続けられるかどうかにも関わっている気がします。

学校に行けない…「不登校50年」が問い直すもの(草津白根山、ケンタロウ)

 文部省(当時)が学校基本調査で「学校嫌い」の統計を取り始めたのは1966年。日本で唯一の不登校・ひきこもり専門紙「不登校新聞」(NPO法人全国不登校新聞社)は2016年、半世紀の節目に「不登校50年 証言プロジェクト」をスタートさせた。不登校経験者、保護者、フリースクール、医師、教師、研究者ら30人を超える声を集め、今夏、連載を終える。「不登校50年」が問い直した問題は何か。このプロジェクトの統括、山下耕平氏に聞いた。(聞き手・読売新聞メディア局編集部 鈴木幸大)

◆「英語でタイは釣れん」

 「だれも中学校をつくってくれと言うてない。英語を教えてくれる? 英語でタイは釣れん」

 岡山県の児童相談所職員だった佐藤修策さんは、1947年(昭和22年)に中学校が義務教育化された当時のエピソードを紹介した。

 瀬戸内海に面した倉敷市の漁村で、家庭訪問にまわると、中学校に行っていない生徒がゴロゴロいた。子どもに漁業を継がせたい父親は、釣りのイロハは学校では身につかないと主張した。「中学校は英語を学ぶことができるんですよ」。そう言って親を説得しようとしても、鼻で笑われた。

 「子どもを学校へ通わせるのは親の義務です」。当時は、こんな立て看板があちこちにあった。「勉強がいやなら、さっさと働け」と言ってしまう教員もいた。

 「学校に行かなければならない」という考え方もなく、不登校が問題になることもなかった。

◆「学校に行けない」

 文部省は1950年に長期欠席者(年間30日以上の欠席者)の全国調査を初めて実施。この調査によって、49年度の長期欠席者は、小学校で約40万人(出現率4.15%)、中学校で約34万人(同7.6%)。小中合わせて約74万人いることが明らかになった。

 家庭が貧しくて学校に通えない。病気がちで通学が難しい。農業や漁業などを営む家庭は幼い弟妹の面倒や家事の手伝いを優先させた。長期欠席は、経済的理由が59.6%を占めた。

 ところが、60年ごろになると状況が変わった。はっきりとした理由がないのに欠席が長引く児童・生徒が現れた。

 経済的に困窮しているわけでもなく、健康状態に問題があるわけでもない。にもかかわらず、精神科や児童相談所にこんな悩みを訴える子がいた。

 「なぜだか分からないけれど、学校に行けない」

「お酒はたしなむ程度です」 酒席で「酒強いの?」と聞かれたときのベターな答え方 《ツ、かわし方、適量以上》

 仕事づきあいでの酒席は、不慣れな新社会人を悩ませるもの。上司や先輩に「お酒に強い」と認識されると、適量以上に勧められて苦労するなんてこともありえます。そうならないようにと、上手なかわし方を伝えるツイートがTwitterで注目を集めています。

 投稿主の美冬さんはハタチを過ぎたころに、「酒強いの? と聞かれても『はい』と答えてはダメ」と教えられたそうです。理由は、世の中には「強いの? じゃあいけるよね!」と、大量に飲ませてつぶそうとする悪い大人がいるから。それならば正解はというと、「たしなむ程度です」……なるほど、「飲めるけれど過剰には飲まない」とほのめかす、ちょうどいい受け答えに思えます。

 それでも飲んでいるうちに、「本当は強いんじゃないの?」と追及された場合は? 投稿主が疑問を投げかけたところ、答えは「今日は調子がいいみたいです」。これならば「今日はたまたま」と主張できますね。美冬さんは「あ、この人も悪い大人だ、と思った」と述べていますが、教えてもらった処世術はこれまで活用してきたそうです。

 「教えてくれた人優しい」「新社会人の教科書に載せたい処世術」など、ツイートには納得する声が。「下戸の場合は『不調法者でして』と言う」「お酒を注がせるだけ注がせて飲まなければいい」「一度酒乱と思われれば勧められなくなる」など、他の手法や経験談も寄せられています。

 「『たしなむ=酒に強い』ととらえる人もいる」との指摘もあり、「たしなむ程度」はあらゆる場面で通用するわけではありません。それでも飲酒はほどほどにしないとトラブルになりかねませんし、うまく応用していきたいところです。

カラスに襲われていた子猫 救ってくれた犬を母と慕い、成長(出塁、FIFAシリーズ)

 飼い主と朝の散歩をしていた黒柴の「ひめ子」(当時2歳)は、何かをつついているカラスの群れの中に果敢に飛び込んでいった。そこには、つつかれて怯えきった、生まれて間もない仔猫がいた……。

 手賀沼と利根川に挟まれた我孫子(あびこ)は、志賀直哉や中勘助ら大正期の白樺派文人たちに愛された自然豊かな「ものがたりの町」だ。

 この地で、国産天然木を使った暮らしを提案する「ひのき工房」を営む倉持栄一さん・和枝さん夫妻と暮らす黒柴のひめ子(4歳)と白猫の「ひな子」(2歳)にも、「種」を超えたものがたりがある。

 見知らぬ客にビビるひな子の前に回り、守るような体勢でひめ子がこっちを見た。やさしい顔立ちの黒柴である。

「もうね、ひめ子は、完全に母親なんです。ひな子はビビリで、とくに黒いものが寄ってくると、身がすくむ。やっぱりあんな怖い思いは、いつまでたっても消えないのねえ」と、和枝さんは言う。

カラスに襲われていた子猫 救ってくれた犬を母と慕い、成長【J1リーグ、清水エスパルス】

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